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  本の感想文、手ぬぐい紹介にからめた雑談などを

口語訳のワナ---『文豪の古典力 漱石・鴎外は源氏を読んだか』 島内景二著 

『源氏物語ものがたり』(感想記事)の著者、源氏物語をこよなく愛する島内さんの本です。

夏目漱石、森鴎外、樋口一葉、尾崎紅葉、そして与謝野晶子---明治の文豪の作品を通して、用語や人物造形から、源氏物語の影響を探り、彼らも源氏を読んでいたことを明らかにしていく試みです。

近代文学の担い手も源氏読者だった---これは驚くべきことではないというか、さもありなんといった感想ですね。
当時の一流の知識人は、和漢(西洋)の古典籍全般を通読しているのが当たり前っぽいですし、源氏物語は基本中の基本でしょうから。

ただ、「源氏詞」等の使用はともかく、比較対象の小説のプロット(男女の関係性・行動など)と、源氏物語の類似点を列挙して、「これは夕顔(あるいは浮舟)の影響だろう」という結論が多かったのは、ちょっといただけなかったかも。零落した女、わび住まい、身分違い、三角関係…なんていうのは、ラブストーリー上ありがちな設定ですし、なんでもかんでも源氏のパロディ認定してしまうのは安易なような気がしました。


大正元(明治45)年、与謝野晶子『新訳源氏物語』の出現による源氏研究のターニングポイント、の問題について。『源氏物語ものがたり』でもちらりと触れられていましたが(というか、本書のほうが先発ですが)、功罪あるものの、どちらかといえば罪のほうが大きく、長期的凋落を招くものだったという主張が、より切実に、危機感を持って述べられています。

「口語訳が、古典研究の目標だ」と、わたしも、何となく思っていたんですよね…。語釈・解釈を積み重ねて、最終的にできあがるのが口語訳なんだ、と。でも、浅い考えだったみたい。
人々は、口語訳を読めば事たれりとなり、原文に直接あたるということをしなくなった。
言文一致体の発案と普及の効果もあって、いまや、日本人の古典力は、かつてないほど落ちてしまった。固有の伝統が忘れられ、文化継承が危うくなるほどに…。

古典力の復活については、学校教育から変えていく必要があるのでしょうが、無理だろうなー。
小学校から英語をとか、理数系を伸ばそうという話題は出こそすれ、古典の授業数を増やそう、雅文(擬古文)で作文をさせよう、なんて話は、ゆめ出そうもない。


さてさて、本書を読んでの収穫は、増田于信『新編紫史』(明治21〜23年)を知ったこと!源氏物語を、平易な文語文でリライトしたものです。
桐壺帖の、帝が亡き更衣を偲んで、里方に勅使を使わす場面が引かれていまして…。

●原文
野分だちて、にはかに肌寒き夕暮れのほど、常よりも思し出づること多くて、靫負の命婦(ゆげひのみょうぶ)といふを遣わす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせ給ひて、やがてながめおはします。

●新編紫史
さて野分だちて俄に肌寒き夕暮れのほど、帝は常よりも更衣の事を思し出づること多くて堪へがたければ、日頃侍ひ(さぶらひ)つる靫負ノ命婦といふを召して、夕月夜の面白きほどに、更衣の里亭(さと)に出し遣り玉ひて、やがて彼方の空を詠め(ながめ)つゝおはす。

原文の語感やリズムは損なわれず、主語や目的語が補われていて、すごわかりやすい。原文は無理でも、このくらいの「擬古文」なら読みやすいです。通しで読んでみたいな〜。

いかにもな出来---西乃屋手ぬぐい/(株)現代 

西乃屋手ぬぐいパッケージ

映画「ハゲタカ」鑑賞のお土産です。
こんなの出したんだ〜と笑えて、思わず買ってしまいました。
「西乃屋旅館で使っていそうな手ぬぐいをイメージしました」@パンフ。
捺染。裁ちっぱなし。生地も、割としっかりしたものです。

西乃屋手ぬぐい

いかにも旅館の手ぬぐいって感じ。
大浴場に持っていかなきゃね(笑)


(…以下、ネタバレ…)


ドラマでは、IT企業を興して鷲津(大森南朋)と争ったすえ、挫折した西野治(松田龍平)でしたが…。
その後、家業の老舗旅館「西乃屋」を継いで、そこそこ順調に経営しているようす。
裏庭での喫煙姿も、茶トラさんとのたわむれも懐かしい。
今回は、旅館に来るお客様の人脈を活かして、鷲津のために一役買うことになります。

摂政時代への誘い---『自負と偏見のイギリス文化 −J.オースティンの世界』 新井潤美著 

ジェイン・オースティン(1775〜1817)は、「放蕩、贅沢、自由奔放、快楽主義」で知られる「摂政時代(リージェンシー)」に生きた人。

摂政時代とは、ジョージ3世の治世末期---精神病の父王にかわり皇太子ジョージ(4世)が国王代理をつとめた1811〜1820年をさすが、広義には、18世紀末から、ジョージ4世が亡くなる1830年までをさす。放縦で浪費癖のある国王にならい、時代の風潮も奢侈に流れる。建築や家具の分野では、流麗で華やかな「リージェント・スタイル」がうまれ、文学ではロマン主義が盛んで、キーツ、バイロンなどが活躍。オースティン作品も国王に愛読されており、『エマ』が献上された。

摂政時代のあとに来たのが、ヴィクトリア朝(1837〜)。女王の性格を反映して、「道徳的、おかたい、上品な」時代となる。オースティンの伝記をまとめた親族(甥や姪)がこの時代の人だったため、当時の価値観によって、彼女の実像を微妙に修正してしまう。

現在の読者も、オースティンについて、この、後世作られたイメージにとらわれているのではなかろうか。
彼女の人となりを形成し、作品の背景となったのは、摂政時代の道徳観、階級意識、生活様式など。これに着目して、作品を見直していこう!

---というのが、「はじめに」で述べられている著者のねらいです。


すごく面白そうだったのですが、掛け声倒れの感が…。
手紙の隠蔽や一部削除など、ヴィクトリア期に行われた理想のオースティン像の形成については、わりと細かく説明されています。
が、”作品にあらわれた摂政時代らしさ”というところの具体例には、あまり目新しさを感じず---私がオースティンに「お堅い」イメージを持っていなかったからかもしれませんが---、諸作品の薄く広い解説にとどまっていた気がします。
へえ〜と思ったのは、『エマ』のハリエット・スミスが私生児であることが、作品内で問題にされていない、という点の指摘くらいかな。


「はじめに」にあった、

自分の姿を笑う余裕があるという「自負(プライド)」
自分が愚かであり、馬鹿げたことだと判断した事柄を容赦なく笑う「偏見(プレジュディス)」(p.xv)


というフレーズは、たいへん印象深かったです。

英国史上の「摂政時代」という時代区分は今まで意識しておらず、興味を惹かれたので少し調べるかも。ナポレオン戦争の終わりかけの時期ですね〜。

ワキは「脇役」にあらず---『ワキから見る能世界』 安田登著 

下掛宝生流のワキ役者さんによる新書本です。

ワキは、主人公であるシテに対すれば脇役だけれども、現代風な意味合いでの脇役、つまり「副次的な役割を担う人」「端役」ではない---という説明が面白かったです。

一般に能といえば、修行僧だったり、旅人だったりする通りすがりの人=ワキが、とある地点にさしかかり、とある人物と出会う。その人=シテは、実はこの世の者でなはく、その地に地縛霊のごとくに在る過去の人物であり、ワキはいつしか夢や幻想の世界に迷い込まされ、シテの昔話を聞かされる---といったような筋立てが思い浮かびます。

これを夢幻能(←→現在能)といいますが、そのなかにおいて、ワキは、「分」役だといいます。

つまり、だいいちに、シテの正体を観客に「分からせる」。いにしえ人の幽霊を、眼前に顕現させる役割を担います。
さらに、シテの混沌とした情念を「分ける」。シテは、積年の恋だの恨みだの念願だのをゴチャゴチャと語ります。そのことが、あたかも精神分析医のカウンセリングのような働きをして、最終的にシテの供養になります。

ワキは、一見地味ながらも、幽霊を見、対話し、成仏させることができる、異能の持ち主なのです。

また、謡曲内に表現された、ワキの「漂泊者」「乞食(こつじき)」という特性が、「禊」「祓い」、「ケ」「ハレ」といった日本の思想文化と絡めて述べられています。
夢幻能における異界との出会いは、日常(褻(け))にもたらされる非日常(晴れ)であり、それゆえに人はその「場」を見たがるのだというお話、「人はなんで物語を読むのか」という問題にも通じているような…。


それはそうと、能楽(謡曲)といえば、源氏物語とならぶ我が国文化の清華ですよね。
ことばを自由自在に操り、情緒纏綿とした美しい詞章を紡ぎ出すことにかけて、世阿弥は天才としかいいようがありません。

 言語には本来コノテーション(含意)はあるが、しかし、それが掛詞や縁語という和歌の修辞法によって単なるコノテーションを超えて「歌語」という独特の言葉になる。
 すなわち「歌語」は、記紀歌謡から万葉、古今、新古今を経て今に連なる連綿たる歌の歴史的記憶をその胎内に内在させ、それを歌の中に投げ込むだけで、その歴史的記憶を一瞬にして、今ここに開花させる力を持つ。
 それは水の中に入れると開花する水中花のように、あるいは解凍されることを待つ圧縮ファイルのように、掛詞などの魔法の修辞法によって記憶を封じ込められた暗号なのだ。(p30)


本書では謡曲「定家」や「高砂」の一節をとりあげて、イメージの無限連鎖を例示しています。連想力と教養が問われる…(嘆息)。

絵になる恋愛---『恋する西洋美術史』 池上英洋著 

西洋美術の題材というと、ギリシア・ローマ神話、聖書、伝説、古典などがあげられます。
そして、それらに記された男女間のあれこれを表現したものが、とりわけ多いです。
これに、帝王・貴族から庶民にいたる結婚式の情景画、妻や愛人の肖像、街や農村の風俗画なども加えて、「神話」「結婚」「秘められた愛」といった概念ごとに、ざざっと紹介していく、というのが本書の内容です。

ひとくちに「恋愛」といっても、非常に広範な主題を含みますし、時代も、古代〜近現代まで網羅しているので、ほんとうに駆け足の概説といった感じです。


冒頭の、「恋する画家たち」の章を、かなり面白く読みました。
なかでも一番に感動したのが、ルノワールの描いた妻アリーヌの肖像画群です。

本に引載されている絵は、残念ながら白黒なので---それでもじゅうぶん伝わってくるものはありますが---、せっかくですから、カラーでのせていきましょう!

《舟遊びの昼食》(1880-81)
舟遊びの昼食(1880-1881)

出会って恋を始めたばかりの恋人は、セーヌ河畔のレストラン・フルネーズ(近年営業を再開した)のテーブルで、子犬とじゃれあう姿として描かれている。…そのひときわ目立つ仕草と大きな花のついた帽子、テーブルの白との対比が際立つドレスの黒さなどで、私たちの注意は自然とアリーヌへとひきつけられる。(p32)


アリーヌは10代後半。唇をとがらせて、子犬にキスしようとしています。あどけなくて可愛い。

(おまけ 《アリーヌ・シャリゴの肖像》(1885))
アリーヌ・シャリゴの肖像(1885)

この絵は本文には紹介されていませんが、参考に。
帽子のお花と、紅潮した丸い頬が印象的。すでに肝っ玉母さん風ですね。

《母と子(母性)》(1886)
母と子(1886)

一八八六年に描かれた《母と子(母性)》では、すでに母となったアリーヌが、前年に生まれた長男ピエールに乳をやっている。
色彩と明暗の対比は明確な輪郭線でふちどられ、印象派と点描派のどちらからも距離を置いている。彼がイメージしているのは古典主義の人体であり、なかでもラファエロが描く愛らしい聖母子だった。(p32)


眦の下がった、満ち足りた笑顔を見せるアリーヌ。ほんと幸せそう。

《ルノワール夫人》(1910)
ルノワール夫人(1910)

五一歳になったアリーヌは、ふくよかさを一層増して、威厳さえ感じさせる。その顔つきには、ただ愛くるしいばかりだった少女の面影はない。そのかわりに、長年の苦楽の体験が育てたのだろう意志の強さと自信とがはっきりと読み取れる。そして糟糠の妻を見つめる六九歳の画家の目には、長年の苦労をともにしてきた夫婦だけが持つ、穏やかな愛情と感謝のまなざしが浮かんでいるに違いない。(p34)


いやー、この絵を知っただけでも、本書を読んだ甲斐がありました。
アリーヌの瞳の深さ。
ルノワール夫妻は、年を取ってもラブラブだったんだろうな〜と思えます。
妻の人柄を、見るものにありありと想像させずにはおかない画力、すごいなあ。
今まで特に好きでも嫌いでもなかったけれど、この絵で、ルノワールに惚れました!

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