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『緋色の皇女アンナ』 

緋色の皇女アンナ
トレーシー・バレット/作
山内智恵子/訳
徳間書店/2001



「緋色の生まれ」とは、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の皇帝の子女を形容する言葉。父親の戴冠後に、宮殿内の緋色(=皇帝だけが使用できた色)の幕を張りめぐらせた産室で生を享けた子供がそう呼ばれ、いっそう高貴とされました。

本書は、11世紀のビザンチン皇帝アレクシオス1世コムネノスの第一子長女である「緋色に生まれし」皇女アンナ・コムネナ(コムネノス姓の女性形)の半生を描いた物語です。

すなわち、当時のビザンチン宮廷の習俗を背景に、
  • 父帝の後継者たるべく、宦官の教師シモンに古典などの基礎教育を、皇帝を補佐する祖母アンナ・ダラセナに帝王教育を叩き込まれる
  • 母エイレーネーの縁戚にあたるコンスタンティノスと婚約
  • 弟ヨハネスの姦計に陥れられて廃嫡の憂き目にあい、婚約も解消
  • コンスタンティノス戦死。歴史家ブリュエンニオスと結婚
  • 父帝崩御、混乱のうちに即位したヨハネスを毒殺しようとして露見
  • 死罪は免れるが、地方の修道院に蟄居させられる
  • 父の業績を顕彰すべく自ら「アレクシオス1世伝」を執筆

といったアウトラインです。誇り高く才気にあふれ、負けず嫌いで曲がったことが許せない性格のアンナが、後継者争いに巻き込まれて数々の苦悩に見舞われ、失意のなかで真の友情を見出し、充足を得るまでの物語です。


読みながら、少し理解しにくい点がありました。また、アンナやビザンチン帝国のありかたをもうちょっと詳しく知りたくなったので、リサーチしてみました。

すると---著者バレットも述べているのですが---、本書に描かれたアンナの半生は、実際のそれを、児童にも親しみやすいようにかなり簡素化して、すべてがアンナの10代の間に終わるように、年月も凝縮させて描いてあることがわかりました。

「せっかく調べたんだから書いておきた〜い!」というだけのモンですし、創作と史実の違いを詮索するという野暮をおかしていますので、興味のある方だけどうぞー。↓

Anna of Byzantium by Tracy Barrett

最大の疑問点は、次のようなものでした。

  • アンナが皇帝の後継者として育てられ、「女帝になる」と、自らも周囲も考えていること。---ビザンツ帝国では男女問わずの第一子相続の慣わしだったの?女帝がいたの?
  • アンナが許婚コンスタンティノスに対して、「私が帝国を受け継いだあかつきには、彼を皇帝に即位させる」と夢見ていること。---ビザンツでは女帝と皇帝の並立OKなの?

結論としては、両方「んなこたーない」でした。

話はアンナの誕生以前に遡りますが、皇帝ミカエル7世ドゥーカスに対する謀反が起きました。首謀者は有力貴族のブリュエンニオス(後にアンナの夫となるニケフォロスの祖父)と、ボタネイアテス。皇帝はアンナの父アレクシオス将軍に鎮圧を命じ、信頼の証として、一族のエイレーネー・ドゥーカイナ(ドゥーカス姓の女性形。ときに11歳)と結婚させます。しかし、アレクシオスは反乱を治められず、ボタネイアテスが即位してニケフォロス3世となります。これが1078年のこと。

そして1081年、今度はアレクシオスが皇帝に反旗を翻します。その際、錦の御旗として戴いたのが、先帝ミカエル7世の「緋色の生まれ」の皇子コンスタンティノスだったのです。

まあ、結局は、アレクシオス自身が即位することになるのですが、コンスタンティノスを共同皇帝(帝位継承予定者)の地位に据えて反対勢力の懐柔につとめ、1083年、皇妃エイレーネーとの間にアンナが生まれると、これを婚約者としました。名門ドゥーカス家の権威を借りることでて、帝位簒奪の正当化と権力基盤の強化をはかったのです。

(アレクシオスのコンスタンティノス取立ては、その美貌の母・皇妃マリアに下心を持っていたからという理由も。これは即位当初、14歳のエイレーネーをただちに宮殿に迎えなかったことの遠因でもあり…。作中でもチラッと触れられています)

アンナは、帝位継承者と見なされたことはありません。それは許婚のコンスタンティノス・ドゥーカスでした。

もちろん、アンナが皇帝の妻、ゆくゆくは母として政治を動かせたら…という野望を持っていたことは確かでしょう。素養もあり、後年の行動を見ても、かなり山っ気のあるアグレッシブな女性だったことはうかがえますし。ただ、あくまで夫を表に押し立ててのことで、自らが女帝に!という気持ちはなかったでしょう。アレクシオスの母アンナ・ダラセナという良いお手本・雛形がありましたし。

ところが、1087年に長男ヨハネスを得たアレクシオスは、心がわりしてしまい、コンスタンティノスを後継者の座から追い落とします。実の子かわいさ。豊臣秀吉の例を引き合いに出すまでもありませんな…。

このとき、アンナとの婚約も解消となったのかどうか。不遇となったコンスタンティノスは、1094年、母マリアとともにアレクシオス暗殺を謀って失敗。翌年には亡くなってしまいます。

その数年後、アンナは、ニケフォロス・ブリュエンニオスと結婚し、2男2女を儲けることになります。本書では、ブリュエンニオスは影の薄いキャラですが、前述のように、かつて、皇帝位を狙って挙兵したほどの武力も有する、大貴族の当主。アレクシオスは、かつてのコンスタンティノスとの縁談同様に、アンナを帝国の主要貴族と結婚させることによって、統治体制を安定させようという目論みを持っていたのです。

実は、アレクシオスのこういった傾向---有力貴族と姻戚関係を結び、協力しつつ統治を行う---は、ビザンチン史上、画期的な転換でした。それまでは、「すべての者が皇帝の奴隷」という理念のもと皇帝一人に権力を集中し、貴族層の台頭を厳しく抑制する政策がとられていたからです。

(そもそも名門出身のエイレーネーが正妃だったことが、アレクシオスの特徴的な点です。作中、エイレーネーが、姑のアンナ・ダラセナを卑賤の出だということで嘲る場面がありますが、過去のビザンツ皇妃は、しがらみを避けるために、外国人だったり、美人コンテストで選ばれた平民だったりしましたので、アンナ・ダラセナにしてみれば、家柄を鼻にかけるエイレーネーは煩わしかったことでしょう)

さて、1110年代に入り、アレクシオスが痛風を病んで臥せりがちになると、エイレーネー・アンナ母娘は結託し、嫡男にして共同皇帝のヨハネスを退け、アンナの夫ブリュエンニオスを後継者とするべく策動しはじめます。アンナはともかく、なぜ、エイレーネーが息子ヨハネスを嫌っていたのかは定かではありませんが、武断的なヨハネスより、教養人のブリュエンニオスのほうが皇帝にふさわしいと考えていたようです。

軍人肌のアレクシオスは、ついに彼女達の願いをきかないまま、1118年8月に崩御の時を迎えます。ヨハネスは、危篤状態の父の指から指輪を抜き取り、いちはやく即位を敢行してしまいます。

弟にしてやられたアンナは、翌年、皇帝位の世襲に不満を持つ貴族達を語らい、再び夫ブリュエンニオスをかついでクーデターを計画します。しかし、夫が決起を尻込みしている間に頓挫。アンナは、母が居住するコンスタンチンープル市内のケカリトメネ修道院に送られたと思われます(エイレーネーは、この計画には参加しませんでした)。

作中では、アンナは僻地の寂しい修道院に配流されたかのような描写ですが、実際は、多くの学者や文化人が、学識豊かな皇姉アンナのもとに集い、アカデミックなサロンを形成していたようです。

ブリュエンニオスは、ヨハネスに武将として仕える傍ら、姑エイレーネーの懇請を受け、帝国史(『歴史』)をまとめはじめます。しかし、肝心のアレクシオス1世の治世の直前まで記したところで、1137年頃に亡くなってしまいます。

これを引き継いだのが、妻アンナ。父をたたえる「アレクシオス1世伝」を完成させ、女性歴史家として業績を残します。亡くなったのは、諸説あるようですが、70歳くらいのとき。仇敵の弟ヨハネス2世(後世、賢君として評価されています)よりも長生きでした。


【参考文献】

  • 井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』筑摩書房 1995
  • 井上浩一「十一〜十二世紀のビザンツ貴族---『文官貴族』『軍事貴族』概念を中心に---」村井康彦編『公家と武家』思文閣出版 1995
  • 井上浩一「アンナ・コムネナ『アレクシオス伝』---著者問題をめぐって---」大阪市立大学大学院文学研究家紀要『人文研究』54-2 2003


【参照URL】
ビザンティン帝国同好会
…ビザンティン帝国にまつわる各種資料を網羅した広範なサイトです

Medieval Sourcebook: Anna Comnena:The Alexiad
…「アレクシオス1世伝」英語版

空はどこかへ続いている
…「アレクシオス1世伝」日本語訳のコーナーがあります(未完・休止中)

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  • [2006/09/14 00:30]
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