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  本の感想文、手ぬぐい紹介にからめた雑談などを

子を愛さない母---『めぐりあう時間たち』 マイケル・カニンガム著 

記憶が定かでないながら、刊行時に読んだはず…ですが、感想を書かなかったようで。
たぶん、本作品のオマージュ元であるウルフの『ダロウェイ夫人』(→あらすじと感想@倉庫)を予習のつもりで読んでみたら、その迫力が凄すぎたので、その後に読んだこちらは薄く感じられて、流してしまったのかも。

しかしながら、さいきん、メリル・ストリープ、ジュリアン・ムーア、ニコール・キッドマンの三女優が共演した映画化作品(めぐりあう時間たち)を、DVDで観る機会がありました。
三人の女性の微妙な重なり合い、かかわり合いを示す視覚的効果が巧みだし、風景や小道具の雰囲気もよく、女優陣の演技も(エド・ハリスも!)見ごたえがあり、すごく気に入ってしまったもので、再読してみようという気になりました。
いわば、ノベライズを読むような感覚で…。


現代のニューヨークで、友人の文学賞受賞を祝うホームパーティーを成功させようと張りきるクラリッサ(メリル)。その友人リチャード(エド)は、彼女に「ダロウェイ夫人」というニックネームをつけ、その人生に大きな影響を与えた最愛の人で、いまはエイズに心身を冒されている。
戦後ほどないロスで、申し分のない夫ダンのために、幼い息子リッチーと一緒にバースデイ・ケーキを焼こうとするローラ(ジュリアン)。彼女は、愛読書である『ダロウェイ夫人』の世界に没頭したい気持ちをおさえつけ、普通の主婦としてふるまおうとつとめている。
そして、ロンドン郊外のヴァージニア・ウルフ(ニコール)。いままさに、新しい小説の執筆にとりかかったところだ。主人公になるクラリッサ・ダロウェイについて、あれこれと構想を練っている。
---そんな三人の女の、それぞれの一日。


読み始めて思い出しましたが、この本、文字の組みようの問題か、漢字と平仮名のバランスが悪いのか、大部分は、原作の文体(を尊重して翻訳した文体)のためなのでしょうが、「目が滑る」んですよね。ウルフに似せてあるのかな…、素直な文章とはいえないので、スルーしてしまって、或いは引っかかって、何度か読み返してみた箇所がけっこうありました。

それはともかく、原作のカニンガムが製作に協力していることもあってでしょう、映画の原作再現度は、非常に高いです。
原作にあって映画にないものは、クラリッサのパートナーであるサリーがらみの話と、娘ジュリアの友人メアリのことくらいかな。
逆に、ルイス(リチャードの元恋人)のクラリッサ宅訪問、ローラのホテル籠もり、駅頭でのウルフ夫妻の口論、クライマックスあたりの描写は、踏み込んだものになっているような。
要するに、強調すべきところはクローズアップし、余計なものは削ぎ落としてあります。原作を凌駕した---とは云いすぎかもしれませんが、テーマがより明瞭で、分かりやすくなっていますし、映画化して成功だなーと思えました。稀有な例かも。


映画で最も気になったのは、ローラ・ブラウンの解釈でした。

原作では、ブラウン夫妻は美男・醜女のカップルです。
映画では、醜男(ごめんなさいジョン・C・ライリー;;)・美女になっていますが、ローラの悩みは、別に夫の容貌がどうとかいうことでないのは、よく分かります。
ローラは、もともと読書好きで内向的な性格。戦争の英雄で、明るく親切なダンに望まれて結婚し、郊外にマイホームを持ち、可愛い男の子がいて、お腹にはふたりめの赤ちゃんがいるという、恵まれた、非の打ちどころのない生活を送っています。
けれど、普通の妻・母親として振舞うことが、苦しくて仕方がない。息子リッチーのひたむきな求愛と、縋りつくような注目が、大きなプレッシャーに感じられてしまう。

私には、ローラは、「子を愛さない母」に見えました。
嫌いというわけではないけれど、愛していない。
しかし、世間的に要求されていることだし、義務感もあって、「子を愛する母」を演じていると。
ところが、コメンタリーを聞いてみると、たしかカニンガム自身だと記憶しているのですが、「ローラは、本当はわが子を愛しているんだ。不器用で表現できないだけ・・・」という感じのことを云っておられるんですよね。

そうかなー。
この点を確かめるために、原作にあたってみた面もありました。
その結果、「本当は愛しているのに」と読める部分は見当たらなかったような…。根本的な読み違いをしているのでしょうか。
ローラの行動は、「子を愛さない母」である自分を肯定し、楽にしてやった---ということだと思ったのですが。

「子を愛しているけれど、態度で示せない母」「子を愛したいのに、うまく愛せない母」ならともかく、はなからきっぱり「子を愛さない母」の存在は、認めたくないものかも。

「渡らせてあげよう」---『カルカッタ染色体』 アミタヴ・ゴーシュ著(再読) 

おもしろーい。またまた一気に読んじゃいました(→あらすじと初読時の感想@倉庫)。

近未来アメリカにいるアンタールの行動、1995年のカルカッタにいるムルガンの行動が平行して語られていきますが、いたずらな横道や停滞もなく、フォルダを次から次へと開いていくように秘密が明かされるので、ストレスフリーでどんどん話にのめりこんでいくことができました。

2003年6月の刊行時(原作は1995年刊)に読んだおりには、人工知能コンピューター「AVA」がすごく先進的なものに見え、SF文学賞を獲ったのもむべなるかなでした。
が、2008年の現在になってみると、さほど突飛なシステムともいえなくなっているような感じで、「AVA」の挙動に気を取られずに読むと、SFっぽさはぐんと薄れてきます。
マラリア原虫、梅毒、死魚の腐臭、鳩の生き血といった、おぞましいイメージ。特定の場所に生じる時空の歪みの謎。音もなく周囲を取り巻いてくる人々の不気味さ。そして何より、ムルガンのその惨状、いったいどうしちゃったんだよー!という叫びが空しくシャットアウトされて、突然、「Fin」となってしまう怖さ・・・。これは良いホラーですね。


以下は、ちょっとびっくりしたことなんですが。

先日、感想を書いたウィリスの『最後のウィネベーゴ』所収「タイムアウト」の時間心理学者アンドルーは、チベットのラサの大学から招聘された研究者で、ラマ寺での修行明け---という設定だったんですよね。
時節柄、「チベット」は気になるアイコンだったので、おやっと思い、ウィリスは、何を考えてこういう人物をこしらえたのかな〜と首をひねったのですが、それほど深くは考えず。

で、本書を読んでみると、全然記憶になかったのですが、またチベットが出てきたんで、ぎょっとしてしまいました。
まあ、些細な偶然なのでしょうけれども…。

ラサは国際水利委員会のアジア大陸本部だった。世界各地の本部の中で唯一、複数の大規模な水系を管轄している---ガンジス=ブラマプトラ川、メコン川、揚子江、黄河。このため委員会ではラサをアジアの事実上の「首都」と呼んでいる。東アジア発の委員会の情報はすべてラサを通じて発信される。(p19)


「国際水利委員会」は、アンタールの勤務先。詳しい背景は書かれていませんが、どうも地球規模で水資源が枯渇状態にあり、この委員会が、世界の水を管理しているようです。
その中で、アジアの主だった河川の水源地を管轄するラサは、アジアの重要拠点であり、「首都」であると。

こういうエンタメ作品から、中国がチベットを手放したがらない理由のひとつを改めて知らされるというのも、きついものがあります。
中国の水不足・砂漠化は、つとに知られている問題ですものね。


また、関係あるようなないようなで、ふいに思い出しました。
シャーロック・ホームズとチベットのこと。
「空き家の冒険」(1903)でホームズが語るところによると、ライヘンバッハの滝でモリアーティ教授と闘い、ともに滝壺に転落した(「最後の事件」)とみせかけて、残党の魔の手から逃れたホームズは、ほとぼりを冷ますためにヨーロッパを離れ(1891-1894)、「ノルウェー人探検家シガーソン」として、2年間チベットのラサに滞在し、ダライラマ(十三世)と数日過ごしたと。

(原文)I travelled for two years in Tibet, therefore, and amused myself by visiting Lhassa, and spending some days with the head lama. You may have read of the remarkable explorations of a Norwegian named Sigerson, but I am sure that it never occurred to you that you were receiving news of your friend.


19世紀の末、イギリスは、インドにおける支配地域を東北部のダージリン地方に伸張し、チベットと国境を接しました。当時、チベットにはロシアや清も干渉してきており、ラサの高僧や貴族を各派閥に巻き込んで、三国による勢力争いが繰り広げられることになりました。
チベットが、(いまにいたるまで苦しめられている)帝国主義と無縁でいられなくなったころの話です。

癖になるカオス---『最後のウィネベーゴ』 コニー・ウィリス著 

壮絶なまでの多忙、まわりくどい多弁、人口密度高すぎ、話がつうじない、しっちゃかめっちゃかな無秩序状態・・・といった、ウィリス読者にはおなじみの特徴がよく出ている、コメディ寄りの中短編集。
ほんっとにイライライライラしてくるんですが、他方で、これがなくちゃなーと痛痒い喜びもおぼえてしまうんですよね。

「女王様でも」
フェミニズムの台頭と医療技術の発達により、女性が月経から開放された時代。女性判事の妹娘が、「自然回帰」をうたう新興宗教にはまった。急遽、三世代による家族会議が開かれる。

女流ならではのテーマですけど、なまなましいのは・・・。

「タイムアウト」
タイムトラベル実験プロジェクトに参加することになった時間心理学者のアンドルーと、専業主婦のキャロリン。お互い初対面のはずなのに、なぜか顔見知りのような気がする。その原因は、このプロジェクトにあった。

時間論、パラドックスのことはよく分かりませんが、ちょっとした浮遊感がドリーミーでいい感じ。


「スパイス・ポグロム」
とあるスペース・コロニーのアパート。クリスの部屋には、謎の先端技術をめぐる人類との交渉のために、異星人がひとり滞在中だ。こうるさい見物人が大勢集まり、ただでさえ手狭な建物が、人と物とで溢れんばかり。そこへ更に、異星人がハッチンズという男を引き入れてしまう。

混乱と喧騒に、ワーッと頭をかきむしりたくなるなか、クリスとハッチンズのあいだにかわされる、ごく普通の会話がオアシスのように沁みてホッとします。うん、それが狙いだな。
日本髪や下駄、和傘といった日本イメージの氾濫が、ミスマッチでおもしろい。


「最後のウィネベーゴ」
道端に横たわるジャッカルの死体。愛犬を亡くした記憶を噛み締めながら当局に通報したデイヴィッドは、燃料・水・交通などもろもろの事情によって走行不能区間が増え、いまや希少な存在である巨大キャピングカー”ウィネベーゴ”に乗る老夫婦の取材に向かった。

上記三編が、のりのりな軽妙さがあるのに対して、うってかわって沈鬱な雰囲気。現在進行形で有形無形に色んなものが失われ、動物---特に犬の絶滅が、人類に大きな傷を負わせたらしい、息苦しい時代の物語。
飼い犬を死なせた人間の表情は、フィルムにどのように写るのか。想像するとズキンときます。


この人の長編に慣れていると、すこし物足りないかな。

交わる平行線---『双生児』 クリストファー・プリースト著 

どんな騙りを使ってくるんだろう。
プリーストだから、ひとすじ縄ではいかないだろうなあ。
---と、いちおう気を張って読み進めていったのですが、とんでもない超展開に引っくり返りました。

双子(影武者)モチーフ満載で、眩惑されますが、こっちが警戒しているような、見間違え・すり替えといった双子トリックなんかお呼びじゃない。どっちかが嘘をついている、でっちあげているというのでもない・・・。

大森望さんの解説まで読んで、やっと全体像が分かってきたような感じですが、まだすべてが腑に落ちたわけではありません。改めて物語の作りを思いめぐらせていると、頭の中でDNAのらせん構造がグルグルまわるような、絡まった糸の塊がモゾモゾするような、ヘンな感じです。

あらすじを、大森さんの言葉で。
「主役は、ジャック(JL)ことジェイコブ・ルーカス・ソウヤーと、ジョーことジョウゼフ・レナード・ソウヤー。一卵性双生児の二人は、オックスフォード大学伝統のボート部に所属し、一九三六年のベルリン・オリンピックに舵なしペア英国代表として出場する。ルドルフ・ヘスとの邂逅、美少女を連れてのベルリン脱出劇、奇妙な三角関係、ウェリントン爆撃機での出撃、大空襲と人命救助、チャーチルとの対話、和平交渉……。(略)激動の時代を背景にした双子と冒険の物語!」


(以下、ネタバレありです)



無理やり、単純化してこう考えてみました。
ある一人の青年がいる。
大学でボート部に所属。ベルリン五輪に出場して銅メダルを獲得した。
さて、これからの進路ですが、どっちを選びますか?

[A :英空軍爆撃機操縦士 / B : 良心的兵役拒否者]

で、Aを選択した場合の歴史と、Bを選択した場合の歴史がパラレルに語られていく・・・と。
少しは、わかりやすい気がします。


実際は、JLとジョーという双子の兄弟がそれぞれの歴史を進み、お互いの歴史に存在し、意識し干渉しあいながら生きているのでややこしい。
加えて、ふたりとも負傷によって一時的な記憶喪失に陥り、回復後、認知に支障が生じているという設定で、語りの形式も複雑怪奇なことになっています。
JLは、過去と現在を行ったり来たり。
ジョーは、(幻覚の)未来と現在を行ったり来たり。
それでも、完全パラレルならまだ理解しようもあるものを、ふたつの歴史が交叉してしまうのだから混乱のきわみ。いちばん普通そうな導入部分が、いちばん謎というところが、ショックでたまりません・・・。

ほんとプリーストは不思議な読み味の作家で、読んだ直後は狐に摘まれたような感じなのですが、後でじわじわと面白さ、凄さがしみてきます。



さて、いま、聖火リレーが大変なことになっていますね。
聖火リレーが初めて行われたのは、この物語に出てくるベルリン・オリンピックなんですね。ナチスの宣伝大臣ゲッベルスの発案だそうです。(参照: 聖火リレー企画はナチスドイツから - 檜山良昭の閑散余録 ←奇遇にも、架空歴史の作家さんですね)
聖火リレーなんて、今までは、いつのまにか始まっていて、いつのまにか世界中をまわり終えている、ランナー以外には殆ど無関係な、ノンビリした小イベントくらいにしかとらえてなかったのですが、今回みたいに、フリーチベットを訴える人々が主張の場にしたり、それを中国側が必死に非難しているのを見ると、国家の宣伝・国威の発揚のために発案されたという聖火リレーの本質が、あらためて浮きあがってくるような気がします。

思考は物質である。---『Y氏の終わり』 スカーレット・トマス著 

読んだ人間がみな死ぬという呪われた本、『Y氏の終わり』。
19世紀イギリスで、異次元の存在に興味を持ち、いくつかの超自然的物語を書いた奇人トマス・E・ルーマスの著作で、世界にただ一冊しか現存しないとされる、とびきりの稀覯書である。

元雑誌記者のアリエルは、ダーウィンの進化論・シュレーディンガーの猫・アインシュタインの相対性理論といった近代の思考実験について研究している大学院生だ。大学からの帰途にたまたま立ち寄った古書店で、『Y氏の終わり』を格安で手に入れ、心を躍らせながら読みはじめる。

<主人公のY氏が、謎めいた医師に薬を飲まされ、他者の意識への同化を果たす。その体験が忘れられなくなり、ロンドン中を探し回ってようやく医師と再会し、薬の処方箋を買う。その薬の作り方は、>---そこで、ページが一枚、破り取られていた!


・・・。
なんだかすごく、ヤバい本を読んじゃったのではないかという気がするんですが。
いまさら知恵熱でもないでしょうが、しばらく余韻でボーッとしていました。

物語のはじまりにして既に、アリエルの指導教授バーレムが失踪して消息不明になっているという異常事態。そこへ、大学の一研究棟の倒壊という盛大なファンファーレが鳴り響いて非日常的な世界に放り込まれ、あとは、一気呵成。ロマンスありサスペンスありで、すっかりはまってしまいました。

科学だの物理だの哲学だの、苦手すぎる分野。アインシュタイン、ハイデッガー、デリダなんて、とんと御縁がない人々ですよ。もし、新聞や雑誌にそういう系統の記事が載っているのを見かけたって、ふつうにスルーでしょう。
それなのに、こうして小説じたてになっていると、ついつい読んでしまう恐ろしさ。
なじみのない知識を、貧相な脳みそのなかにドサドサと詰め込まれ、それはそれは疲れました。でも、知らないことを知る楽しさ、アリエルと一緒にわからないことがわかっていく面白さに夢中になってしまいました。

(夢中といえば、ちょうど、「アリエル、罠に掛かったねずみに同化」のくだりを読んでいる最中、睡魔に襲われてスーッと意識が遠のいて夢かうつつか状態になり、物語内のイメージと夢が重なって自分もねずみになったかのような錯覚を起こしたときは、まじめに焦りました…。とんだお笑いぐさで)


アリエルの人となりが、わりと深く掘り下げられていましたね。
このストーリーだったら、単に知的好奇心と冒険心が旺盛な女性というだけでもじゅうぶんに引っ張れたような気がするし、少々重めな生育環境や性癖など、そんなに詳らかに肉付けする必要があったのかなと思わないでもなかったです。
アリエルに被虐的・自棄的な部分があるということが、彼女が思考実験や四次元世界に魅かれたり、心身の危険をかえりみずに無謀な行動に出たりすることの必然性を演出し、キャラに奥行きを与えることになったのかな、とは思います。
人の意識に入り込むだけでなく、積極的に働きかけて変えることができるのが、アリエル以外では自閉症児だけ、とされていることも加えて、もっと深い意味があるのかもしれません・・・。

さて、はじめに書いた、この本の「ヤバさ」というのは、現代人として無意識のうちに奉じている「科学万能主義」の揺らぎを感じる不安感なのかもなーと思ったり。
最先端の科学理論が、晦冥なるオカルト世界と地続きらしい(つきつめていくと、限りなく同一?)ことをほのめかされる、そこはかとない薄気味わるさというか。

こういう、科学とオカルトが不分明なドロドロ・モヤモヤした感じ、ゴーシュの『カルカッタ染色体』感想)を思い出しました。
あと、コニー・ウィリスの『航路』感想)も。
両方、再読したくなってきたー。

オススメです!ぜひ、この酩酊感を味わって欲しい。

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